にほんブログ村 小説ブログ 人気ブログランキングへ

BL小説「欠片を紡ぐもの」1

満月の幻影1

…呑まれる?!

 藍野の頭にはその言葉だけが浮かんだ。

 薄暗い人込みの中で、目の前に立って自分を見ている男の存在だけが、ほの明るい光をまとって浮き立つ。

 照明のバランスだろうか。

 銀色から藍色にも鳶色にも変化して見える瞳が絡み付いてくると、まるで全身を柔らかく縛られたかのような甘い感覚に捉われた。

 風など吹きようのない地下階で、男の肩先まで伸びた髪がふわりと揺らいで見えている。

 な…んだ?

 目が離せないままに浮遊感のある眩暈を覚え、身体中に響いている大音量の低音が、ぼんやりと遠のいていく。

 意識のかすれを感じて重くなった瞼を閉じた彼は、すっと足元から崩れ落ちた。


 数時間前。

 母体? 誰かの体内に居るようだ…。

 その場所に足を踏み入れた途端、佐々木藍野は言い知れないグロテスクさと、それでいて安心する窮屈感に全身を包まれた。理性から外れた意識だけが大きく反応してしまう感覚だ。 
 赤銅色を基調にして有機的な曲線をふんだんに取り入れている空間に、身体の芯まで震わす低音が響き渡り、照明が鈍い光を放っている。
 “クラブ”と呼ばれるこの穴蔵のような場所には、うごめく人の波ができていた。
 フロアの隅に置かれたスタンドテーブルに寄りかかった藍野は、思い思いのスタイルで踊る客達を斜に見つめて缶ビールに口をつけた。卵型の輪郭とはっきりとした目鼻立ち。真っ黒で柔らかくウェーブした前髪から覗く紫黒の瞳には、周りの客を扱き下ろした色が映っている。

 何が楽しいんだか…。

 コピーライターという肩書きの彼は、職業柄、情報収集のアンテナをあらゆる場所で張っている。だが、クラブには以前から興味が向かなかった。単に飲んで踊って女を漁る場所という、希薄で空疎なイメージしかなかったからだ。
 [Feed]と名づけられたこのクラブは、ダウンタウンよりわずかに逸れた古いビルの地下にある。わざと息を潜めているような目立たない店なのに、なぜか自ずと客が集まってきていた。その賑わいは毎週末に入場制限が出されるほどで、客が外に列を作っている。
 [Feed]〝餌場〟という店名は、どういうコンセプトから名付けたものなのだろうか。
 藍野はこの奇妙な店名の意味するところなど他愛ないことを考えつつ、響く低音に身を沈めて過ごしていた。人混みプラス大音量という空間なのに、不思議とリラックスできる。カウンターもフロアもテーブルも全てが暗い赤に沈み、そして滑らかな曲線を持って客を心地よく受け入れていた。藍野はほんの半刻程前に店内に入ったばかりだと思い込んでいたが、時間を確認すると優に二時間近く経っていることに気づいた。日常とは時間のリズムが違う場所のようだ。
 この空間は一般的なクラブのそれにはない、得体の知れない懐かしさと、誰をも引き込んでしまう魅力があった。

 あ…、良く言えばバルセロナの聖堂や庭園の建築物みたいな感じかもな…?
 ま、スケールは全く違うか。

 有名どころの奇才建築家を思い出した藍野は、皮肉めいた口許で笑うと、音と人の渦の中で視界をぐるっと巡らせてみた。

 ふと、彼の視点が一点に磁石に吸いつけられたように前方のDJブースの横で止まる。
 目の先には、軽くブースに凭れてDJのプレイを眺めている男の姿があった。藍野が居る場所からは横顔しか見えないが、透き通る程に白い肌が暗いフロアの中でもはっきりと際立っている。細面で端麗な顔立ちに明るい色の癖のない髪、背が高く流麗な雰囲気を醸し出すその男は、その場に立っているだけで周りの空気感を変えていた。発せられる気配がまるで常人とは異なり、否応なしに視線を奪われてしまったようだ。
 タイトなグレーのシャツに細いスカーフを巻いて、黒のスリムパンツを履いたシンプルなスタイル。特別に身を飾り立てている訳ではないが、藍野がその男を視界に入れた途端、周りのものが自らフェイドアウトし色を失くして潜んでしまった。

 何だ…?

 通常、クラブのような一晩だけの恋愛相手を探す恰好の場所では、異性にしか目が向かない。藍野は女ではなく男に目を奪われてしまうという稀に訪れた感覚に戸惑い、その理由を意識的に探ってみた。