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BL小説「欠片を紡ぐもの」20

惑うもの3

 思い起こせば、藍野にとってあの日の時間の感覚は定かではなかった。自分で時計を見たことは一度もない。自由に動ける状態ではなかった彼は、友哉と玲巳の何気なく発した言葉から、凡その時刻を察しただけだった。
 二人の言葉を信じるならば、砂川和也が転落した時間帯は確実に友哉と部屋に居たことになる。だが、二人が口裏を合わせ、偽った時間をわざと口にしていた可能性もある。

「やはり、何か思いあたることがありそうですね」

 永輝は藍野の反応に満足そうに微笑み、静かに立ち上がって伝票を取った。

「待てよ。俺はなにも言ってない」

 藍野は少し慌てた様子で腰を浮かせたが、永輝に手で制された。

「あなたは正直な人だから、言葉にしなくても表情で分かります。僕は絶対に松浦友哉が兄を殺した証拠を掴みます。あなたにも協力してほしいんだ。…では、また連絡しますんで」

 微かに笑んで言葉を落とした彼の表情には、稚さは消え去って悲しみだけが浮かんでいた。
 返す言葉が見つからず黙ってしまった藍野に、永輝はふと何かを思い出した表情を作って再び口を開く。

「あ、佐々木さんはインキュバスって松浦から聞いたことありますか?」

「インキュバス?」

「ええ。兄が残した松浦の資料の中に出てくる言葉です。彼がデザインを手掛けた店の名前かなにかだと思うんですが…」

「さあ。聞いたことないな」

 その言葉に聞き覚えがなかった藍野が首を横に振ると、永輝は「そうですか…」と、少し残念そうに笑って一礼し、背を向けて去っていった。
 藍野は永輝の姿が見えなくなってからレコーダーを止め、小さく溜息をついて残っていた珈琲に口をつける。

 砂川和也が松浦友哉に殺されただと?

 一人になってしばらく考え込んでいた藍野は、何気なく後方からの視線を感じて瞬時に振り返った。ここ最近、誰かに見られている波動を感じる。カップをソーサーに置いて立ち上がると、軽く辺りにいる客達に視線を巡らせてみるが、いつもの常連客ばかりで不審な人物は見つからない。

 気のせいか…。

 席を離れ、まだ微かに感じる背中への視線を振り払うように大股で店を出て、上階の職場へと戻った。

 自分のデスクに戻るより先に喫煙スペースの一席を陣取った彼は、煙草に火を点けて咥えたまま、レコーダーのイヤホンを耳に入れると、もう一度永輝との会話を再生しはじめた。

『松浦友哉に殺された』

 永輝の確信を持った声音が頭に響く。“和也がいい人間ではなかった”とはどういう意味だったのだろう。殺されても仕方のないことをしていたのだろうか。
 藍野は煙草の灰がジーンズの上に落ちたことに気付き、耳に流れてくる少し高い永輝の声に聞き入りながらも緩慢とした動きで吸殻を灰皿の中に落とした。
 腕を組んだ前屈みの状態で、視線を落としてレコーダーの会話に集中していると、煙の匂いとともに近付いてきた影がある。喫煙所にたどり着く手前で煙草を吸いながら歩いてくる人物は高山一人だけだ。
 イヤホンを外した彼は高山を振り仰いで、「さっきのカメラマンの話の続き、はやく聞かせてくださいよ」と、口許で笑ってみせた。

「やけに急かせるんだな…」

 高山は、藍野の表情に永輝から何らかの情報が手に入ったことを察する。吸い殻を灰皿に入れて椅子に身体を落とすと、すかさず次の煙草に火を点け、大きく煙を吐き出した。

「さっきの、砂川和也の弟なんだろ?何だって?」

「ああ…、いや、和也は殺されたとかなんとか言ってましたけどね。たぶん勘違いだと思いますよ。俺に何を聞きたかったのか意味不明でしたね」

「…ふーん、そうか」

 高山は、何かを隠している藍野の表情を読み取っていたが、そのことには触れずに砂川和也の過去数年の行動を話しはじめた。

「砂川和也は、元はクリエイター寄りの写真家だったんだが、五年ほど前に名の通った賞を続け様に受賞してから仕事を干されはじめたらしい」

「は?受賞して仕事増えるんじゃなくて、干された?」

「まあ、思い上がりが強くなったんだろうな。周りの関係者が敬遠しはじめた。で、仕事が激減した結果、有名人のゴシップ関連の仕事に手を出すようになり、不倫、薬物、汚職、スキャンダルになりそうなものに食いつくようになった。所謂、パパラッチだな」

「パパラッチ…」

 藍野は、クラブで見かけた和也の姿を思い出しながら、独り言を呟くように言葉を落とした。

「ああ、そこで終わればまだ良かったんだが、和也はそれでも飽き足らなかったのか、この半年ほどはゴシップで得た情報をもとに、裏でその本人を恐喝していたって噂もあってな。業界人として目に余るものがあったようだ」

「恐喝?写真をネタに揺っていたってことか?」

「そういうことだ。聞き伝てだから真相は分からんが。ま、あいつの情報はそんな感じだ」

  高山は話を締めくくり、吸殻を灰皿に落として立ち上がる。

「なるほど…どうも」

 藍野は、どこを見るという訳でもなく、一点を見つめたまま上の空に答えた。

「お前、あまり首突っ込むなよ。砂川が死んぢまったから当人に関わることはないだろうけどな」

 高山は、喫煙スペースを去り際に、素っ気なく呟いた。
 彼の言葉の中に気遣いを感じ取った藍野は、我に返って高山の後ろ姿を見つめると、照れ気味な苦笑いを浮かべて煙草に火を点ける。

もし、砂川和也が友哉を恐喝できる情報を手に入れていたとすれば。そして、それが友哉にとって致命的なものであったとすれば。

『兄は。松浦友哉に殺された』

 そう言った永輝の言葉が、世迷い言ではなく、現実的なものへと変換される。

 ライターという仕事をしている以上、藍野は常に真実だけを見極めて己の我を入れず、客観的な立場で物事を分別する努力はしていた。だが、ふとしたことで揺らめく感情に、誤った判断を出す弱い自分も認識している。
 友哉に興味以上の感情を抱いていることは、頭で否定しても身体が肯定のサインを示していた。だが、今はその感情を抑え込んだうえで、彼を客観的に観察する必要があるのかもしれない。
 友哉のインタビュー取材が一週間延期されたということは、彼を調べる時間が増えたということだ。藍野は、重要なのは理性を働かせることだと察し、自分の中に渦巻く複雑な感情に呑まれないよう深く息を吐いて、大きな深呼吸を重ねた。