堕ちゆくもの2
藍野が会社に出勤すると、閑散とした社内の制作室に数人のデザイナーが各々のデスクの前で張り付いて仕事をしていた。
藍野が勤める広告代理店は、営業が十名程度、デザイナーとコピーライターが二十名程度、プラス事務や経理が数名、そして管理職という組織で成り立つ小規模の代理店だった。
園田真由が勤める大手ハウスメーカーの仕事をメインに、その他中小企業からの広告を請け負っている。完全週休二日制とは名ばかりで、デザイナーの何人かは仕事の納期を迫られた状態で毎週のように休日出勤しているのが現状だった。
デザイナー達の仕事の邪魔をしない程度に小声で挨拶をすると、自分のデスクに座りPCを起動する。
午前中に集中して昼までに仕事を終える予定にしていたが、頭の隅にちらちらと昨日の出来事が浮かび、予想外に気持ちが削がれた。
「くそっ!」
どうにも落ち着かず、十分も経たないうちに席を立った彼は、廊下の隅に箱型の灰皿と丸椅子が置かれた簡素な喫煙スペースに向かう。
煙草に火を点け一つの椅子にまたがって腰をかけたとき、エレベーターを降りて藍野に向かって歩いてくる人物に気付いた。
ひょろっとした体系に眼鏡の奥の神経質な目つきが印象的な男が、封筒を抱えて忙しない足取りで近付いてくる。
おでましか…。
藍野は内心苦笑いした。
その男は真由と同じ会社の営業兼企画広報担当の坂崎正人。
真由が勤めるハウスメーカーは、基本的に土日は出勤となっている。土曜の今日、彼が来社してもおかしくはないのだが、予定では来週早々に担当営業が資料を引き取りに出向くはずだった。わざわざ先方から足を運んできたということは、仕事ではない“個人的な用”があるからだろう。
「佐々木さん、これ今度の新しいシリーズの資料だから。よろしく」
藍野が座っていた隣の丸椅子に、ばさっと資料が入った封筒が投げ置かれる。
「ああ、わざわざどうも。営業が取りに行く予定だったんすけどね…」
藍野は坂崎には目も向けず、資料を手に取った。
「近くまで来る用があったからね。…そういえば今日、園田さんが急病で休みだって」
「ふん、そうすか…」
適当に言葉を返した藍野は、坂崎とは話す気はないとばかりに、だる気に煙草を吸ってゆっくりと煙を吐く。
「園田さんて、もしかしたら今日は佐々木さんと一緒かと思ってたんだけど…。違ったんだな」
坂崎は細い一重瞼の奥の瞳に意味深な色を浮かべ、藍野の顔を覗き込んで小声で囁いた。
彼は良く言えば園田真由のファンのようなものだが、悪く言えばストーカーに近い。藍野がいつも受付で真由と親しげに話していることを、ずっと気疎く思っていたのだ。
「知ってるんだよね。君達、昨日はデートだったんだろ? 朝まで?」
藍野は坂崎の詮索する目つきや、小心者がわざととる横柄な態度に閉口する。
坂崎は近しい親戚が興信所を営んでいて、個人的な情報などは容易く手に入れられる立場だった。
黙って無表情に煙草を吸い込んだ藍野は、いきなり立ち上がって煙を坂崎の顔に向けて吐いた。
「本人に聞いてくださいよ」
一瞬、眉をしかめて顔をそむけた坂崎は、ひきつった笑みを浮かべ数回視線をうろつかせると、
「と…とにかく資料は渡したから」
と、藍野から背中を向けて再び忙しなくエレベーターに向かって去っていった。
片目を細めて坂崎の姿を見送った藍野は軽く溜息をつく。
それにしても…。休んでるのか…。
真由が仕事を休んでいることを聞き、多少ではあるが気持ちが乱れた。
昨日、VIPでの色事を見てしまった時点で、真由に対する気持ちはすでに以前とは違うものになっている。
もう連絡することもないだろうと思っていたが、胸のあたりに小さな棘のような引っ掛かりを感じ、挨拶程度の軽いメールを打った。
[坂崎さんに聞いたけど、仕事休んでるんだって?体調、悪いのか?]
メールを送信し、灰皿に吸殻を落として二本目の煙草に火を点けているうちに、はやくも真由からの返信メールがきた。
[うん。すごくだるくて。それより昨日はありがと。呑みすぎてたのかな? 記憶がはっきりしないの…。藍野くんが送ってくれたんでしょ?]
俺が送った?
藍野は彼女からのメールの内容をすぐには理解できず、数回読み返した。
記憶がない?…のか?
真由のメールの文面からは、クラブでの記憶が消えていることが分かる。呑みすぎて記憶が飛んだのだろうか。だが、昨日の真由は記憶をなくすほど酔っている様子には見えなかった。
自分が倒れていた間に松浦友哉に呑まされていたということか。それとも、松浦との情事は酔った上でのことだったと遠回しに言い訳したいのだろうか。
[俺は送ってない。松浦友哉に会ったことは覚えてるよな?]
藍野は、微かにざわつく胸の動悸を感じながらメールを送信すると、再びほぼ間を空けずに彼女からの返信がきた。
[松浦友哉? 会社のイベントで会って話したことはあるけれど…。昨日、どこかで彼に会った?]
その文面に一瞬固まった藍野は、こめかみに手を当てて苦い表情をつくる。
[いや、ちらっと見ただけだったかな。とにかく今日はゆっくり休めよ]
適当に締めのメールを真由に送ると、フィルター近くまで吸っていた煙草に気付いて、慌てて指先で摘んで灰皿に落とした。
すぐにポケットから三本目を取り出して火を点けた彼は、斜めを仰いで空に煙を吐いた。
真由は遊び慣れはしていたが、見え透いた嘘をつくようなタイプではない。
「あいつを覚えてない…だと? マジか…」
小さく呟いた彼の紫黒の瞳は、目に見えない焦点を見つめているようで、見方によっては途方に暮れたようにも好奇心に捉われているようにも見えていた。