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恋愛小説「極彩パラノイア」18

愛する。ということ6

「ごめんなさい…。鞄」

 返してもらおうと両手を出すと、彼がわたしの腕を強く取る。

「なんで、走った?」

 真剣な表情に、わたしは言葉をなくして俯いた。
 冷静になってみれば、逃げた理由は一つだと気付いた。自分が彼にとって特別な存在ではなかったことを知って情けなくなった。ということだ。

「ねーさん?」

 だが、口からは全く違う内容が言葉として出てくる。

「…もとから、あなたとは世界が違うと思ってた。あなたの傍には、前に居酒屋で一緒にいた金髪の彼女のような子が似合う…」

「は…?」

 わたしが顔を上げると、真っ直ぐに彼の瞳が突き刺さってくる。
 だが、溢れてくる彼への否定の言葉が止められなかった。

「…あなたは周りのたくさんの女友達とはちょっと違う、わたしのような地味な年上タイプが面白そうだっただけよね…」

「…え? さっきの連れの言葉を気にしてる?」

「わたしと居るところを友達に見られて気まずかったんでしょ? いつだって、思わせぶりしてわたしをからかってただけでしょ」

「誰が気まずいって? 俺はねーさんが彼女とか思われると迷惑かと…」

「言い訳はいいから」

「ちょっと待て。俺は…」

 彼は何か言いかけたが、わたしは聞く耳を持たずに言葉を上から重ねた。

「だから!もう、あなたのようないい加減な人に気持ちを乱されたくないの。鞄、返して」

 掴まれていた手を振り払って、自分の鞄に手を延ばす。
 彼は一瞬考え込む間をつくったが、視線を落として小さくため息をつき、持っていた鞄を差し出してきた。

 これで、本当にこの人との関係は終わりになる。

 そう思うと、身体に痛みはないはずなのに、全身が圧迫される苦しみが生まれた。その感覚を無視し、受け取った鞄を抱きかかえて再び逃げるように彼の横を通り過ぎる。
 だが、思いがけず後ろから強く片腕を掴まれ、いきなり横の壁へと押しつけられた。

「…!?」

 勢いで鞄を落としてしまったが、突然の出来事に拾う余裕などなかった。
 抵抗する暇もなく、彼に荒く首の後ろを掴まれて仰向かされる。

「あんた、むかつく…」

 急に目の前の彼が豹変したことに言葉をなくし、動揺と恐怖で瞬きさえできず身体を固めた。
 普段のゆるい彼のイメージが消え、目の前には冷たくそれでいて凄艶な瞳がある。

「…なん…なの?離して」

「無理だ」

 惑わせるように見つめてくる眼差しに、戸惑いと不安を感じた。
 視線から逃れようと顔を逸らせ身を引きかけたが、逆に身体を強く押し付けられ、全く身動きがとれなくなる。

「離し…」

 声が、近付けられた彼の唇で強引に遮られた。
 頭の中がパニックになる。強く捕まれ壁に押し付けられている腕の痛みとはアンバランスに、なめらかな舌が甘く絡んでくる。恐怖心と甘美感が混ざりあい、胸の奥深い場所で高鳴る動悸が苦しくて、身体が硬直した。
 腕はそのままにゆっくりと身体だけ離してきた彼は、耳元に顔を近づけてくると、「声出すな…。力、抜けよ」と、低く、それでいて甘く誘うように囁いた。

 怖い…!

 自分の身体が小さく震えているのが分かったが止められない。傍に居る彼が、まったく知らない他人のようにすら感じた。すぐにこの状況から逃げ出したいのに、身体が呪縛されたように動けなかった。
 彼の唇が首筋に降りたとき、一気に複雑に乱れる感情が高ぶり涙が溢れる。

「…はぁ」

 突然、彼は脱力したように大きくため息をついたかと思うと、わたしから離れて後ろの壁に片手を付きうな垂れた。
 不意に解放されたことで緊張の糸が切れたわたしは、すばやく頬の涙をぬぐう。

「行こう」

 彼は落ちていた鞄を拾うと、再びわたしの腕を今度は柔らかく掴んで歩き出した。
 引っ張られるようにして歩くが、その速さに足がもつれそうになる。

 どこへ行くの?

 それさえ聞ける雰囲気ではない。前を歩く彼の表情は窺えないが、わたしを拒んでいる空気が伝わってくる。その背中を見ながら、消えない不安と胸の痛みに苛まれ続けていた。
 何本かの小道を過ぎて五分ほど歩いた時、商店街の端に出る。
 わたしの手を離した彼は、鞄を差し出してきた。

「ここからなら、帰れるだろ」

「え…」

 鞄を受け取ったわたしは、彼の顔を見つめた。
 そこには、いつもと同じ真っ直ぐに見つめてくる鳶色の瞳があった。迷ってしまっていたことに気付いていたのだろうか。それとも暗い道の一人歩きを避けてくれたのだろうか。
 彼の気持ちを推し量ると、胸の痛みが増して更に苦しくなった。

「さっきはさ、あんたが言う通りのいい加減な男になって、からかって弄んでやろうかと思ったけど…。やっぱり俺にはできね~わ」

 そう言った彼は、わたしの頭に優しく手を乗せた。
 強引に迫ってきた彼とはまるで別人のようだ。見下ろされた瞳が優しくて、せつなさが身体を占める。

「じゃ~、バイバイ」

 軽くわたしの額をこづくようにして笑った彼は、裏道のほうへと去っていった。

 彼の姿を見送って商店街の中を歩き出したわたしは、歪む風景に足を止めながら少しずつ先を進む。落ちてくる涙が止められない。
 今更、自分の行動を後悔しても遅いが、悔やまずにはいられなかった。
 はじめて、彼はさようならを言った。
 本当のさようなら、二度と会わないさようならを言われたのだと、理解した。