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恋愛小説「極彩パラノイア」8

恋愛マニュアル3

 二杯目のビールを頼まず、理由をつけて帰るべきだったと後悔する。この空間に居続けることは苦痛であるほかない。

 田崎はカウンター席に着いたカラフルな二人が目に入ったようで、数秒視線を投げていたが、興味なさそうにテーブルの上のチヂミに箸を伸ばした。この席で縮こまっていれば田崎の影に隠れられ、ハレーション男子の姿は見ずにすむ。しばらくの辛抱だと言い聞かせた矢先、金髪彼女のやたらと高くて通る声が耳に入ってきた。彼女は、発する音までサイケな人だったのだ。

「睦月さん、今度休みの日に映画につきあってくれない? ほら、今すごく宣伝してるハリウッド映画あるでしょ? あれ観たいんだよね」

「そうですね…」

「じゃあ、いつがいい?」

「はい…」

「ん? 睦月さん?」

「あ…」

 金髪彼女の声が気になり、田崎が話しかけてくる言葉を聞いていなかった。
 顔を覗き込んできた彼に愛想笑いすると、「ごめんなさい、ちょっと酔ったみたいで」と誤魔化す。

「大丈夫? 無理して飲まないようにね」

 彼は心配そうに呟きながら、スタッフが運んできていた二杯目の生ビールを視線で指した。

「あ、大丈夫です。少しぼんやりしてるだけだから」

 彼の気遣いを申し訳なく感じながらも、適当に取り繕つくろうのが精一杯だった。
 その間にも、ずっとテンションの高い声が耳に入り、つい聞き耳を立ててしまっていた。ハレーション男子の声は笑い声がたまに聞こえてくる程度だが、そのたびに微妙な動悸を感じる。

 友達? 彼女? やっぱりわたしはからかわれてた…?

「さてと、もう今日は帰ろうか?」

 田崎は、わたしの浮かない表情を気にしているようだった。

「あ、ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってきます」

 田崎に対する自分の態度があまりにも酷いことに気づき、気分を変えるために席から立ってトイレに向かう。
 ハレーション男子が座っている席の後ろを身を潜めて通りすぎたとき、彼の楽しそうに笑う顔が目に入る。わたしには見せたことのない笑顔だった。

 すごくお似合いの二人だ…。

 女性用トイレの個室に入って一人になると、気が緩んだのか大きなため息が出てしまう。少しだけ酔っているからだろうか、切ない感情が胸を独占し、なぜか目頭が熱くなった。
 頭をすっきりさせるため、しばらく蛇口から出る水に手を浸し続けてみるが、重い気持ちは変わらない。鏡に映った自分の暗い顔を発見し、両頬を思い切りつねって姿勢を正した。

 考えていても仕方がない。

 淀んでいた気持ちを無理に上げて女性用トイレから外に出た。
 だが、すぐに足が固まった。目の前に、視界に飛び込んでくるような極彩色があったのだ。腕を組んで壁に凭れているハレーション男子。彼は、わたしを見下ろして無言で近づいてきたが、その表情にいつもの笑顔はない。そして、身体を固めて身構えていたわたしの右腕をいきなり強く捕んできた。

「な…に?」

 彼の行動に戸惑いを隠せず、思わず拒否るような声を出してしまった。
 鳶色の瞳は見下ろされたままで、何も言葉にしない。もう片方の手をわたしの首の側面に添えた彼は、ゆっくりと顔を近づけてきた。
 すぐ目の前の透明感のある瞳が甘く揺らぐ。
 いつものちゃらい様子はひとつもなく、香水の香りに艶つやめきを感じた。わずかに開かれた唇が数センチの距離にきたとき、一気に緊張度が増していった。

「隙だらけだ。顔も赤いし。かなり飲んでる?」

 思い切り身体を強張らせていたわたしを、ごく近距離で見つめていた彼は静かに呟いた。

「…ちょっと。からかわないで」

 咄嗟に身を引いて後ずさる。鼓動が信じられないほど高まっていた。
 彼は少し瞳を柔らげると、わたしの肩に軽く手を置いて、「飲みすぎると、襲っちゃうぞ~」と、いつもの調子でへらへら笑いを見せながら男性用トイレに入っていった。

 一体、なんなの…??

 逸る鼓動の動きが止められない。
 腹立たしさを感じながらも、彼の手に触れられた感覚がしっかりと残っている。
 混乱しつつ席に戻ると田崎の姿がなく、店のスタッフから彼が外で待っていることを告げられた。
 急いで外に出ると、清算を済ませて待ってくれていた田崎が、「大丈夫?」と、心配そうな表情を向けてきた。

「大丈夫です。今日はありがとうございました」

「気分悪そうだし、送ってくよ。睦月さんの家の場所はだいたい燈子ちゃんに聞いてるから」

 優しく落ち着いた微笑みを浮かべた彼は、商店街に向かって先に歩きだした。
 気を遣ってくれる彼に申し訳ない気持ちを抱きながら後を追う。背はそう高くないが、姿勢がよく歩き姿が美しい人だった。前を歩いていても、後ろをついていっているわたしのことを常に確認していることが分かる。全てにおいて穏やかに引っ張ってくれる彼には安定感があった。
 信号待ちで追いついて隣に並んだとき、彼は変わらず優しい表情で話しかけてきた。

「睦月ちゃん、映画に行きたくなったら連絡して」

「映画…?」

 そういえば、店内でハリウッドがどうのと話していたような覚えもある。
 あのときは極彩カップルが気になって田崎の話をほとんど聞いていなかった。

「そう。気が向いたらね」

 さらっと押し付けがましくないその態度に、大人の余裕を感じる。
 信号が青になると、彼はさりげなくわたしの手を取って歩きだした。あまりに自然で、スムーズな流れ。
 多少、恋愛というものはこういう手順で…のようなマニュアル的なところを感じなくもないが、本来は頭の堅いわたしには合っているのかもしれない。
 波立っていたわたしの気持ちが落ち着いていくのが分かった。